ひさしぶりに札幌へ。


飛行機のなかでE.T.ベル『数学をつくった人びと』(ハヤカワ書房、2003年)を読む。
ハミルトンは1827年、23歳のとき、『光線系の理論』第一部を発表している。
ハミルトン自身が書いたサマリーのなかに、「方解石(Iceland Spar)」の屈折の話がでていてドキリとした。

通常の鏡面における光の反射の法則は、ユークリッドにも知られていたと思われる。水、ガラス、その他日結晶体の表面における屈折の法則は、ずっとのちにスネリウスによって発見された。単軸結晶(たとえば方解石)によって生ずる異常屈折の法則はホイヘンスが発見し、マリュスが証明した。そして最後に、双軸結晶(たとえば黄玉やアラゴン石)の表面における異常二重屈折の法則は、われわれの時代になってフレネルによって発見された。しかしこれら異常屈折ないし結晶屈折の場合でさえ、二本の屈折光線が観察されたにすぎず、人間の知覚には感じられないだろうが、第三の光線が存在するというコーシーの理論を除いては、そのほかの光線が存在すると考えたことさえなかった。(…)【光学に関する論文の第三補遺】


札幌は予想以上に冷え冷えとしていて、風邪を悪化させる。
曼荼羅」のスープカレーおいしかった。




 15/5℃ 曇りのち晴れ

 突然ついったへのアクセスを丸2日中断してみる。適度に距離置かないとだめだなあ。 
 現在深夜1時すぎ。10年くらい聞いてないはずのケルト音楽のCDの曲が頭の中でとつぜん再生されはじめた。脈絡がさっぱりわからないけど、妙に気分にしっくりくる。
 そうだはてなダイアリー書き始めたのもこんな3月の日だったっけ。

晴れ 10℃/2℃

 ふーー長い1日だった。12時間前、24時間前がずいぶん前のことのように感じられる。いくつものやりとりをしたという感覚が身体にか心にかよく分からないが残っている。きのうの夜は思いもかけず大きな選択のまえに立たされた。人生の転機はこうやってやってくるのだな。gdgdになりかけたが、なんとかふんばれたと思う。新しい気力の気配みたいなものがある。
 倫理的な力について、そうだなここ数年ずっと考えてつづけている。


 撤去された自転車を2週間ぶりにレスキュー。高尾山の大火渡り祭の木札をもらう。地元の町でまだ知らない店がいっぱいあることを知った。仕事における重要な構想上の着想。GRINDという男性ファッション誌をはじめて知ったが、インタビューがなかなかよい(立ち読み)。


 明日は雨か。
 写真は先月29日とある。

たしかに彼女のほうがこうした点でウィンストンよりもはるかに先鋭的であり、党の宣伝にもずっと影響されにくかった。(…)彼女がまた、<二分間憎悪>のときに一番苦労するのは思わず噴き出して笑ってしまわないように我慢することだ、と言うのを聞いて、彼はある種の羨望の念をかきたてられもした。

とはいえ、彼女が党の教えに疑問を抱くのは、それが何らかのかたちで自分の人生にかかわる場合に限られていた。神話めいた公式見解を鵜呑みにすることがよくあるのだが、それはひたすら、真実と虚偽の違いが大して重要だとは思えないからだった。(…)彼がそうした話題に固執して話をやめないと彼女は眠りこんでしまって、彼をまごつかせた。


  二人の食い違いがよい。男は抽象的に、女は現実的にものを考える、という古いステレオタイプだろうか。そうかもしれない。でもこの齟齬は、不和をきたさず、不幸の予兆ともならず、愛のかたちとしてそっと保持されている。

そのとき彼を圧倒したのは、服を脇に放り投げた彼女の仕草への感嘆の気持ちだった。優美で無頓着なその仕草は、文化全体、思考体系全体を完全に無化するみたいに思えた。(…)それもまた古い時代に属する仕草だった。ウィンストンは「シェイクスピア」と呟きながら目を覚ました。


  シェイクスピア?なんの説明もないところがよい。


それは何にもまして彼の聞きたかったことばだった。一人の人間への愛情だけではなく、動物的な本能、単純な相手かまわぬ欲望、それこそが党を粉砕する力なのだ。(…)二人の抱擁は戦いであり、絶頂は勝利だった。それは党に対して加えられた一撃、それは一つの政治的行為なのだ。

一瞬、彼は激しい怒りを覚えた。彼女を知って一月、彼女に対する欲望の質が変わっていた。(…)行けないと言われたとき、彼は相手が嘘で言い逃れをしているような気がした。しかしちょうどそのとき、二人とも人ごみに押され、たまたま手が触れた。彼女は彼の指先をとっさに強く握りしめた。それは欲望よりも愛情を求めているようだった。すると、女性と暮らしていれば、ほかならぬこうした失望は繰り返し味わう普通のことなのに違いない、と思えてきた。そしてそれまで彼女に対して感じたことのなかった深い優しさが不意に彼を捉えたのだ。


  オーウェルのこういう心理描写が好きだ。わざとらしさや余計な説明のない、spontanな、そして正しい感情のうごき、軌道。優れた児童文学にみられるものだが。

サイムは間違いなく蒸発させられる、とウィンストンは再度思った。そこには一種の悲しみも混じっていた。もっとも、サイムが自分を軽蔑しており、すこし嫌っていることはよく分かっていたし、さらに、理屈がつきさえすれば、自分のことを思考犯として告発しかねないこともよく分かっていた。サイムには何かが微妙に狂ったところがあった。欠けているものがあるのだ――分別とか超然たる態度とか取り柄になるような愚かしさとか。

 ウディ・アレンみたいな人物を想像する。憎めない。