ジェラルド・ハワード「『重力の虹』の思い出 〜ピンチョン A to V〜」翻訳(その2)


続きです。

重力の虹』のような小説も、たくさんの人の協力があってはじめて完成したんだなあとしみじみ思わされる。

翻訳は次でおしまい。

***

(承前)


2004年の夏のある金曜日、私はヴァイキング・ペンギン社の半分打ち棄てられたオフィスにこもって、『重力の虹』の分厚い編集資料のファイルをめくりつつ、忘れがたい午後を過ごしていた。忘れがたいというのは、過ぎ去ったオフィステクノロジー(カーボン紙、電報、手動のタイプライターで打たれたメモ)や、傑出していた故人たちの名前を――ヴァイキング社で長年文学アドバイザーを勤めたマルコム・カウリーから、同僚たち、良き師たち、そして友人達まで――そこで目にし、深く心を動かされたからだ。だがまた、ドロシーのようにカーテンの背後をのぞきこみ、20世紀の最も重要な小説の1つを打ち上げた発射台のレバーがどのように引かれたのかを確かめるという純粋な魅惑もあった。


ほとんどのピンチョンファンが知っているように、コーリーズ・スミス――みんなにはたいていコークと呼ばれていた――は、ピンチョンが駆け出しの作家だったころからの担当編集者だった。背が高く、ハンサムで、さりげなく貴族的な、オールドスクールの出版人(ツイードジャケット、フィルターなしのペルメル)で、その驚異的な業績、非の打ち所のない文学趣味、そして何食わぬ調子の、ときおりはっと驚かせる卑俗なウィット(「しかしその本には私がいままで読んだなかで最高の馬の交尾シーンが出てくるよ」と、とある販売会議上で、ある小説について真面目くさった顔で言ってのけたのが今でも忘れられない)でもって、かれはヴァイキング社の若い社員たちからアイドル視されていた。彼よりも親切で、正直で、率直な男はいない。小説編集の技の目利きたちは、コークをその世界のトップだとみなしていた。彼がともに仕事をしたのは、ピンチョンのほかに、ミュリエル・スパーク、ロバートソン・デイヴィス、ジミー・ブレスリン、ウィリアム・ケネディ、ハリエット・ドアー、マディソン・スマート・ベル、グロリア・ネイラー、そしてキャロリン・シュートがいる。私は1980年にヴァイキング・ペンギン社に入社したが、そのおよそ3時間後には私はコークのオフィスにいた。そしてそれがささやかだが素晴らしいピンチョンをめぐる冒険につながることになったのだ。忠実なるコーネル大学卒業生として、私はリチャード・ファリーニャの素晴らしい(かなり良い、というべきか)コーネル大学をモデルにした小説『ビーン・ダウン・ソー・ロング・イット・ライクス・アップ・トゥー・ミー』が絶版になっていたこと嘆かわしく思っており、そしてこともあろうに、彼の親友のピンチョンならペンギン社で復刊したら喜んで序文を書いてくれるのではないかと思いついたのだ。さすがピンチョン。彼は比類のない優しさにあふれた文章を書いてくれ、またスペイン語の動詞の時制の問題について電話で話す機会を――彼の声は60年代はじめの深夜のビートニクDJを髣髴とさせた――私に与えてくれた。しかしなんと。コークが教えてくれたところによると、1965年にファリーニャの小説がピンチョンに渡されたとき、彼は「ピンチョンのまがい物みたいだ」と言って(うわあ)、エージェントにつき返してしまったという。


1960年にコークがピンチョンの最初の短編のひとつ「低地」を文芸雑誌「ニュー・ワールド・ライティング」に掲載する権利を買ったとき、彼はフィラデルフィアを本拠とするその雑誌の出版元リッピンコット社の若き編集委員だった。同じころ、あの伝説のカンディーダ・ドナディオがエージェントとなって、題名未定、テーマも未定の1冊の小説についての契約が交わされたのだった。私は、やがて『V.』と呼ばれることになるその小説の編集段階で、コークとピンチョンの間で交わされた約20通の打ち合わせの手紙のコピーを持っている(どうやって手に入れたのかは秘密だ)。最終的に題名が決まるまで、かなりひどい案もいくつか、少なくとも一時的には検討されていた。『ベニー・プロフェインのヨーヨー世界』、『ハーバート・ステンシルの探求』、『操られた世界』(以上がコークのアイディア)、『漂泊の血』、『パラダイス・ストリートにて』、『そして彼はコケる』、『過ぎ去りしものの足跡』、『今夜は孔雀の羽の見よ』、『共和党はマシーンだ』(以上がピンチョン)。どのようにして『V.』という完璧に明瞭な題名に落ち着いたのか、手紙は語ってくれていない。コークは早い段階で、「偵察旅行」を兼ねて、彼の新しい担当作家をシアトルに訪ねた。ピンチョンはそこでボーイング社のテクニカルライターとして働いていて、大陸間弾道ミサイルミニットマン」の開発プロジェクトなどに加わっていた――来るべきV-2ミサイルの吟遊詩人にとって完璧なリサーチワークだ(興味深いことに、今は亡き詩人にして教師のリチャード・ヒューゴーは、ドイツに対する空爆作戦に参加した退役兵士であったが、彼も当時ピンチョンと同じ部署で働いていた)。コークとピンチョンの手紙のやりとりには、真剣さと、熱い情熱と、おどけた調子とがかわるがわるあらわれている。数多くの緻密な編集作業が双方の側で行われた。ピンチョンは、助言を受けることにすこしも抵抗を覚えない若手作家という印象を与える(「正直にいって、私は小説を書くことについてまだこれっぽっちも分かっていません。だからどんな種類の手助けも必要なのです」)。しかし同時に、そうしなくてはならないときには自分の意見を貫くほどには自信があった。ややショックなことだが、コークはどうやら、マクリンティック・スフィアを扱った部分はこの小説全体を無駄に「黒人問題」についての「抵抗小説」っぽくしてしまうと考えていたらしく、それを削除するよう提案している。ピンチョンはしかし、ありがたいことに、気を使いながら、しかしまたきっぱりとそれに反対している。


彼らは非常によい仕事をした。1963年に出版された『V.』は、今では20世紀に書かれたもっとも良質な長編処女作の1つとみなされている。その3年後、リッピンコット社は『競売ナンバー49の叫び』を出版する。この作品は、当時『V.』の優美なコーダ部とみなされていたが、ほんとうは来たるべきオペラ的作品の優美な前奏曲のようなものだったのだ。そのときまでにコークはリッピンコット社を去り、そして編集者というものがそうするように、彼の発見した新星を引き連れてヴァイキング社に移ったのだった。


1967年1月24日、ピンチョンは「題名未定の小説」の執筆に関して、印税と印税前払金などの最終条件は原稿納品時に合意するという条件で、ヴァイキング社と数万ドルのオプション契約を結んだ。納品は、楽観的なことに(ヒッヒッヒ)、1967年12月29日の予定となっていた。これはつまり、このときすでにピンチョンはこの小説のかなりの部分をすでに書いていたということを意味していないだろうか。私が調べたファイルには、そのとき社内に原稿を読んだものがいたかどうか、あるいは企画の長さはもちろん内容について知っていたものはいたかどうかを示す証拠はなにもなかったのだが。出版人としての私の推測だが、ピンチョンとコークはそれまでに、第二次世界大戦の末期のドイツのロケットミサイルをテーマとした小説について、ごく大づかみな会話ないし手紙のやりとりをしており、ピンチョンの人気作家としての立場や、ヴァイキング社がいかに熱烈に彼の作品を出版予定リストに載せたがっていたかを考えると、それで十分だったのではないだろうか。


時は流れ、1969年の1月21日のこと。おそらくピンチョンに関してもっとも明敏かつ献身的なアカデミックな批評家であるエドワード・マンデルソンに宛てて、コークは次のように書いている。「私たちはこの数か月、彼の新しい小説の原稿が届くのを待っています。…彼がよりによってロサンジェルスで何をしているのか知りませんが、ちゃんと執筆していると思いたいところです」。10月20日、再びその知りたがり屋の批評家に宛てて、「申し訳ありません。ピンチョンの小説に関する進捗はありません」。1970年3月5日、ピンチョンはコークに、4月1日の締め切りは守れそうにないことを侘び、1970年7月1日に延ばしてもらえないかと頼んでいる。彼はコークの寛容に感謝を示し、手紙の末尾に、彼だけが口に出せるなんたるアイロニーであろうか、その小説が『競売ナンバー49の叫び』以来の最大のゴミになるのではないかという心配を記している。さらに時はたち、1972年1月27日、コークはカンディーダ・ドナディオに宛ててこのように書いた。「法外な喜びをもって、トマス・ピンチョン氏の小説の納品に際し彼に支払われるべき*****ドルの小切手を同封いたします」。題名未定の小説が到着していた。契約書の署名通知欄の「梗概」には次のように書いてあった。「第二次世界大戦末期とその直後のイギリスとヨーロッパにおける、大勢の型破りな登場人物たち――ほとんど全員がV-2ロケットに取り憑かれている――についての無軌道で広範囲な物語」。


それにしてもなんという巨大な未題の本だったろう!初読だけでかなりの時間を要した。当時コークの助手をしていたアリーダ・ベッカーが教えてくれたのだが、原稿が届いてからまもなくのある日、コークのオフィスにピンチョンから電話がかかってきたという。しかしコークは外出していたので、ピンチョンは彼女にその本をどう思うか尋ねた。彼女は注意深く、とても楽しみながら読んでいるが、とても時間がかかる本なのでまだ読み終えていない、とこたえた。「とても長いんですもの」、と説明した彼女に対して、ピンチョンは誇らしげに、「それ全部自分でタイプしたんですよ」と言ったそうだ。私が調べたファイルには明らかに抜けがいくつかあって、ピンチョンからの手紙がやけに少なかった(誰かがおそらくちょろまかしたのだ。あーあ)。編集作業に関する手紙は、とくに『V.』関連の手紙に比べると非常に少なかった。しかし、この本については大規模な編集は事実ほとんど行われなかったようだ。聞いたところによると、カットしたほうがいいのではないかという意見が当初おずおずとピンチョンに伝えられたが、かれはその検討を拒んだという。編集者として言えば、私もどこから手をつけたらよいか、どこをカットしたら物語りの筋と象徴の隠れた重要なつながりを断ち切ってしまうか分からなかっただろう。ヴァイキング社の誰もがそうだったのだと思う。だから、ピンチョンが納品した未題の小説――途中ある時点で『思慮なき快楽』という仮題がつけれらた――は、『重力の虹』の読者が読んだ当のものと、少なくとも99%は同一のものである。


一行一行を緻密に検討する作業は、ヴァイキング社の校閲部のチーフだったエドウィン・ケンベックに任されていたが、彼はこの叙事詩に登場する十分に評価されていない英雄の一人なのだった。彼が書いたピンチョンへの手紙は、あたたかく、打ち解けた調子で、そしておどろくほど微に入り細をうがったものだった――彼はこの本を「了解した」のは明白だった。そして彼とピンチョンは明らかにうまが合った。私はヴァイキング・ペンギン時代のエド・ケンベックを知っているが*1、感じのよい、物腰の柔らかな人物だったことを覚えている。言葉の鍛冶屋としての優れた技術のほかにも、彼はある一つの大いに役立つ能力をこの重要な仕事に投入した。第二次世界大戦中、ケンベックは第8空軍のB-17の無線通信士として従軍し*2ドレスデン作戦も含め、35回のドイツへの爆撃任務を遂行していた。彼は生の体験から多くの技術的誤りを訂正することができた(スピットファイヤーは戦闘機であって爆弾を積むことはなかったし、B-17による空爆作戦は早い時間に行われたので午後の東の空に飛行機が見えることはありえなかった)。ある手紙で、彼は1944〜45年のロンドンへのV-2ロケット爆撃で自分が体験したことを伝え、ピンチョンに次のように請け合っている。「とはいえやはり、スラングのようなごくわずかなことを除けば、あなたが書いたこの場面の描写は全くもって真に迫っていると言わねばならないでしょう」。


ケンベックの手紙は、1つのやや重要な解釈上の問題を解決してくれる、といってよい気がする。広く知られた解釈では、この小説のナンバリングされていない章と章とを区切る視覚的装置となっている7つの四角形の並びは、映画のフィルムの上下に穿たれたスプロケット穴を意味しており、この小説をある種散文で書かれた映画として映画的に「読ま」なければならないことを示している、とされている。違うのだ。ケンベックは一通の手紙で、第二次世界大戦に従軍した兵士が送った検閲済みの手紙――当時「Vメール」*3と呼ばれた(またしても例の文字)――に開けられた「複数の長方形の穴」についてはっきりと言及している。ドナルド・バーセルミにこの本を1冊送ったとき同封した手紙では、ケンベックは、ポワリエの書評ではじめて広められたこのスプロケット穴理論についておどけた調子で言及し、「私が文学史に寄与していたものを、自分ではちっとも知りませんでした」とコメントしている。時に長方形は単なる長方形だし、もしかしたら検閲済みであることを示す跡かもしれない。


この小説の校正は、ピンチョンのコーネル大学の同窓生で、ファリーニャの小説にも登場している社会批評家カークパトリック・セイルの妻のフェイス・セイルによって行われた。当時メタフィクションの温床だった「フィクション」誌の編集者もしていたセイルは、早い段階でピンチョンの原稿を読んだ一人で、膨大な原稿の文体上、正書法上、句読点上の複雑なからみあいと取り組み、すばらしい仕事をした。彼女は平均的な校正者よりもはるかに深く編集作業に関わったと聞いたが、資料の中にそれを示す証拠は見つからなかった。その後校正者として輝かしい経歴を残したセイルは、1999年に亡くなった。もし彼女が生きていれば、私はきっと彼女のスタイルシートを見せてもらいたいと思っただろう。


そして題名という厄介な問題があった。ヴァイキング社の最初のプレスリリースでは『思慮なき快楽』が採用されたが(この題名は小説のなかで2回出てくるフレーズからとったものだ)、これを歓迎した人は誰一人いなかった。ケンベックは、こうした状況でだれもがおちいる半ばやけっぱちの態で、どれもいまいちなこんな案を出していた。『時の権力者』、『見捨てられし者の天使』、『統制』、『スロースロップの巧妙な逃走』(これはいいかもしれない)。申し分のない『重力の虹』という案をもってきたのはピンチョンだろうと私は考えている。しかし、カバーの広告文を必要最小限にするという方法を考えついたのはケンベックで、このおかげで、この本の冒頭の一文が「イシュマエルと呼んでくれ」以来最も有名なものになったのだった。


そして現実的な問題があらわれた――どうしたらこの700頁余の本を、現役大学生や大学卒業後まもないピンチョンの読者にとってはなはだしい負担にならない程度の値段で出版することができるだろうか。『V.』と『競売ナンバー49の叫び』は、それぞれ大量販売用のバンタム社版で300万部以上売れていた(ここでしばし、この数字が60年代のアメリカの読書レベルについてなにを語っているかを熟考してみよう。ほら、みんな死にたくなるでしょう)。コーク・スミスがブルース・アレン(「ライブラリー・ジャーナル」で『重力の虹』の書評をした人物で、この本の価格のことでヴァイキング社に苦情の手紙を書いてきた)に宛てて書いた手紙によると、もし当時前代未聞の10ドルという価格で売れば、ヴァイキング社は、収支を合わせるために3万部以上を売らなければならなかった。参考までに、『V.』と『競売ナンバー49の叫び』のハードカバー版の売り上げはそれぞれ1万部だった。では、数百万人の資金難のピンチョンファンのごく一部にでも本を届けるにはどうしたらよいか。コーク自身がユニークな戦略をあみだした。紙と書式は同一、装丁だけが異なる4.95ドルの自社のペーパーバック版と、15ドルの「ぶっちゃけ高価格のハードカバー版」を出版する、というものだ。これは賭けだった。コークいわく、「大学生のピンチョン読者は、この小説のためなら5ドル札を喜んで手放してくれるかもしれない――あくまで『かもしれない』ですが――と私たちも考えております。なんといっても、彼らはその額ならLPレコードのために何度だって払うのですから」。もう一つの賭けは、書評者に関してだった。彼らはペーパーバック小説を真剣に取り上げることはほとんどなかったからだ。しかしコークはこう書いている。「ピンチョンが無視されることはないと私たちは、もちろんあなたと同じように、感じております」。


こうして準備が整ったので、ヴァイキング社は、当時のアメリカの出版社ならどこでもやっていたように、いつものやり方で打って出た。すなわち、高級志向の文学的期待と興奮をあおることである。資料ファイルに保存されているゲラ刷りと献本の送り先のリストは、1973年前後のアメリカのエリート文学界を写した詳細で生き生きとしたスナップショットになっている。宣伝や噂が広まることを狙って製本した校正刷りを送った先は、アービング・ハウ、アルフレッド・ケイジン、レスリー・フィードラー、フランク・カーモード、ケン・キージーウィリアム・ギャディス、ベンジャミン・ドゥモット、ポール・ファッセル、ジョン・アップダイク、ジョン・チーヴァー、ジョージ・プリンプトン、ライオネル・トリリング、リチャード・エルマン、カート・ヴォネガットといった人たちだった。ファイルには、コークの顧客だったジョセフ・ヘラーとマリオ・プーゾの名前が手書きで書かれたメモが1枚入っていたが、その名前の脇には「『V.』を読破しようといまだ奮闘中」と書かれていた。リチャード・ポワリエには、当時ヴァイキング社で働き始めたばかりの名編集者エリザベス・シフトンから原稿のかなり初期のコピーが送られた。献本を受け取った人のリストはさらに長く、それはいっそう広大な作家や書評執筆者のネットワークを張りめぐらしており、まだ存命の人も惜しくも物故してしまった人も含め、出版業界の非常に多くの人びとの名前も載っているのだった(死がこんなにも多くの人を亡きものにしていたなんて知らなかった)。面白いことに、最近亡くなった俳優のジェリー・オーバックや、社交界向け楽団のリーダー、ピーター・ダッチンもリストに入っていた。そして悪戯っぽく愉快な献本が1冊あるので、ケンベックが書いた同封の手紙を全文引用しておこう。それはメリーランド州ジャーマンタウン(!)のフェアチャイルド・インダストリー社に宛てられている。「拝啓フォン・ブラウン博士。トマス・ピンチョン氏の『重力の虹』を1部お送りいたします。著者謹呈」。


30年前のやり方はこういった具合だった。仮にピンチョンが隠遁していなかったとしても、当時は著者朗読会の会場などはほとんどなかったし、本の長さや難解さからして、ジョニー・カーソンやディック・キャベットのテレビのトークショウで討議するというのも馬鹿げていた。著者を使った販促という禁断の技はまだその揺籃期にあった。それは書評家の仕事だったし、いつでも彼らはそれをやってきたのだ。『重力の虹』の出版日は1973年2月28日だった。あちこちの書評欄のトップに載った忘我状態の記事のおかげで、3月9日までに、ヴァイキング社のプレスリリースは大喜びで、1時間に700冊の注文を受けたとアナウンスした。初版2万3000部、重版が1万2500部、3版が2万5000部が出たあと、出版社はさらに5万部を刷るための紙を大急ぎで注文した――今振り返ってもまったくもって驚くべき数字だ。その年、ヴァイキング社は恐ろしいほど好調だった。同時期に出版して商業的に成功したものに、フレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』と、ピーター・マースの『セルピコ』の2冊があった。マディソン街625番地のホールはめくるめく喜びでふくれあがり、ちょっとつついたら破裂しそうなほどだった。ヴァイキング社の社長で発行者だったトマス・ギンズブルグは、5月の初めロンドンにいたが、彼に宛てた素晴らしい電報が2通、このファイルに収められている。1通はヴァイキング社のやり手の宣伝部長リッチ・バーバーからのもので、その内容は簡潔。「ピンチョンは大喜び、フレディは煮えきらず、マースはかんかんにご立腹です」。もう1通は、ピンチョンその人からで、こう書いている。「親愛なるトム・ギンズブルク。どこにいるのだか知りませんが、お伝えしたら喜んでくれるかと思いまして。私がナンバーエイト、わが友フレディーがナンバーツーでした」*4。つまり、少なからぬ人が20世紀でもっとも難解とみなしているこの小説が、血沸き肉踊る暗殺スリラーや、脚光を浴びた警官の実話をもとにした小説よりも、あるいはそれら以上に売れたのだ――優れた出版手腕による驚くべき偉業である。『重力の虹』は、ニューヨークタイムズのベストセラー小説リストに4週間とどまり、ペーパーバックとハードカバーあわせて約4万5000部売れた。1年後に出版された大量販売用バンタム社版は、10年間で約25万部売れた。


もちろん賞のノミネートは確実だった。当時は、全米図書賞の発表は授賞式の前に行われていたので、ヴァインキング社は『重力の虹』が小説部門賞をとったも同然だということを前もって知っていた。ピンチョンが本当に姿を現すという期待をもっている人はいなかったが、小説の発行者は、彼があっさり受賞を拒否してしまうのではないかと――実際1年後にいささか回りくどい理由からアメリカ文芸アカデミーのハウエルズ賞を辞退したように――気を揉んでいた。アーウィン・“世界一の権威”・コーリー教授をピンチョンの分身としてもぐりこませようという霊感に満ちたジョークを思いついたのはギンズブルグだった。その当時コーリーはときどき深夜のテレビトークショウに出演していたが、フロックコートをはおり、一重結びのボウタイをつけ、マッドサイエンティスト的な髪型をした躁病患者といった風采で、茶化した博識をまぜながら英語のセンテンスをみごとにこんがらがらせてしまうのだった。哀れなラルフ・エリソンが、ピンチョンだと彼が思いこんだその男に賞を手渡す役目を負わされた(「私たち…みなさんも私と同様混乱してしまっていたら申し訳ありません」)。ピンチョンがどんな見た目なのか誰も知らなかったことを思い出してほしい。だから、観客席から壇上に跳びのった髪もじゃの男をピンチョンだと思ってもまったくしょうがなかったのである。ああ、コーリーが傑作のスピーチを始めたとき(そのテクストはウェブですぐに見つかる)、会場のホールはじつに愉快な混乱でいっぱいになったことだろう。全裸の男が会場を駆け抜けたとき、コーリーは見事なアドリブで言ったのだった。「たった今観客席を走っていったクノップフさんにも感謝の言葉を捧げたいと思います」。


これに対して、ピューリッツァー賞のエピソードは、明々白々のつまらないジョークだった。これについてはジョン・レナードが書いた「ニューヨークタイムス・ブックレビュー」のコラムが一番うまくまとめている。その年受賞作なしと決めたとき、理事会は、ヴォネガット、マクゲイン、ヴィダル、シンガー、チーヴァー、マラマッド、そしてガードナーといった候補者までももろとも無視したのだ、とレナードは指摘している。その辛辣な記事の結論はこうだ。「かつてくだらないか退屈なだけだったピューリッツァー賞の運営の面々のふるまいは、いまや醜聞となった。理事会も、コロンビア大学の評議会も、雁首そろえて国語の短期補習授業を受けるか、そうでなければ授賞ビジネスからとっとと手を引くべきである」。ピンチョンの読者はみな、簡潔に次のような結論を出した。われわれのヒーローは、当局が扱いかねるほどにはっきりとしたやりかたでものごとの真実を語ったのだ、と。


***


つづき

ところでファリーニャの"Been Down So Long It Looks Like Up to Me"のタイトルのかっこいい定訳ってないものかしらん?

*1:ヴァイキング社は1975年にペンギン出版に買収されヴァイキング・ペンギン社になった。どうでもいいことだが、ペンギンがバイキングの荒くれどもを引き連れよたよた歩いている図を想像するとたのしい。

*2:ここに乗る。 http://www.azcaf.org/pages/crew/radio

*3:Victory mail。参照: http://postalmuseum.si.edu/exhibits/past/the-art-of-cards-and-letters/mail-call/v-mail.html http://en.wikipedia.org/wiki/V-mail

*4:ラグビーのポジションのことか?