ジェラルド・ハワード「『重力の虹』の思い出 〜ピンチョン A to V 〜」翻訳(その1)

原文はこちら
ヴァイキング・ペンギン出版の元編集者ジェラルド・ハワード氏が、ピンチョンの『重力の虹』の思い出話や制作秘話?を語ったもの。2005年にこのbookforum.comというサイトで発表されたと思われる(これがどういう種類のサイトなのだかよく知らない。このとき同氏はランダムハウスグループのダブルデイ・ブロードウェイ出版の編集長だった)。いろんな話が出てきておもしろい。
2006年にこのテクストをみつけていつか訳そうと思っていたらこんなに時間がたってしまった。長いので分載。翻訳の許可とかはとってないので、怒られたら消します。
誤訳が山ほどあるかと思うので、ご指摘いただけたら大変有難いです。
続きは後日。


1973年、トマス・ピンチョンの『重力の虹』が私の脳髄を直撃し、そう、V-2ロケットのごとく爆発した。それは当時私がまさに求めていた本、自分の精神と魂の状態について教えてくれる本だった。時は1970年代。国は水中深く沈んでいたし、私もまたそうだった。タールのようなブラックユーモア、圧倒的な難解さ、猖獗を極めるパラノイア、加速するエントロピー、吃驚仰天の倒錯、終末論的な恐怖、技術と死と邪悪な<統制>の結託した力の陰謀としての歴史――こうしたものすべてが最高だった。私は、大学卒業後1年目の日々の屈辱や、時代の文化的、政治的な退廃よりは、1冊のアメリカの小説によって精神を打ち砕かれるほうを好んだのだ。


その前の年、私はピンチョンの母校でもあるコーネル大学を、実際には役立たずの(すくなくとも就職という意味においては)英語学の学位をとって卒業し、生まれた地に近いブルックリンのベイ・リッジに舞い戻り、茫然自失とし、混乱していた。「サタデー・ナイト・フィーバー」の主人公トニー・マネロが住んでいたのとまったく同じ通りで大人になったと言えば、私の苦境を理解してもらえるかもしれない。大卒の募集を求めてマンハッタンの歩道を6週間――今ならたじろいでしまうが休憩時間に読むために安値で売っていたナボコフの『アーダ』のハードカバー版を持ち歩いていた――歩き回った後、私は広告産業の歴史のなかでもっとも不機嫌でやる気のない訓練生として仕事にありついた。ありていに言って、私(と哀れな私の両親)は私自身を扱いかねていたし、世界は救いの手をさしのべようとはしてくれなかった。


ほかに選択肢もなかったので、私は読書することで落胆の沼から脱出しようと決めた。ニューヨーク市のアウターボローにおけるメタフィクション・セラピー――うまくいきそうもない戦略だった。しかし幸運なことに、私は一人のすばらしいガイドかつ遊び仲間をみつけることができた。それもナローズ沿いのバスケットボールコートというもっともありえなさそうな場所で。私は夕方や週末、そのコートに、ほかの2つの鎮静剤、つまりゴールリングとマリファナを求めて足しげく通った。やがて判明したのは、コートの常連でピーター・カルダイムという名前の痩せぎすの男が、バンクショットの名人だっただけでなく、最近ダートマス大学を卒業したばかりで、作家志望で、同時代の先鋭的な文学について包括的な知識を――特にトマス・ピンチョンについて――もっていたということだった。こうして、情熱的な読書と会話、そしてドラッグについての同じような趣味に養われ、人生を変えてくれるるあの変革的友情のひとつが始まった。少なくとも私の人生はそれで変わった。今日にいたるまで私は、私たちが共有した文学的指導に従ってきたのである。


よく冗談で言っていたのだが、私たちの読書リストは3つの原則に基づいていた。ドナルド・バーセルミより直線的なものはダメ、ハリー・クルーズよりゴシック的で自棄っぱちでないものはダメ、ウィリアム・ギャディスより魅力的なもの、濃密でないものはダメ。もっと強いワインと狂った音楽を求めて、私たちは初期から中期のアメリカのポストモダニズムの密集地にむかって一直線に飛び込んでいき、バースとアビッシュ、クーヴァーとエルキン、リードとスケニック、マシューとギルバート・ソレンティーノ(ベイ・リッジ生まれ!)、ウィリアム・ギャスとジョン・ホークスたちがさまよう遊園地のびっくりハウスのなかで迷子になったのだった。私たちの読む本の重要な1グループとなっていたのは、60年代の破綻以降にわれわれの祖国で生き残ること、という特別に男性的な問題に関連していたものだった。だから、ハンター・トンプソンの『ラスベガスをやっつけろ』、フレデリック・エクスレイの『あるファンの思い出』、トーマス・マクゲインの『影の中の92』、そしてロバート・ストーンの『ドッグ・ソルジャー』はわたしたちの試金石だった。私たちは、ドン・デリーロの初期作品『アメリカーナ』と『エンド・ゾーン』(核戦争の隠喩としてのフットボール―正確だ!)を発見し、興奮を抑えきれなかった。


もちろん、私たちはお決まりのビッグネームはほとんど相手にしなかった。ソール・ベロウは、問題作『サムラー氏の惑星』で常識外のところにいってしまっていたし、ジョン・チーヴァーとアップダイクはあまりにも郊外的すぎた。ゴア・ヴィダルは、こともあろうに陰謀たっぷりの歴史小説を書いていた(素晴らしいエッセイではあったけれども)。マラマッドは鎮静剤だったが、私たちのような種類のそれではなかった。2人のビッグネームだけが私たちの怒りを逃れていた。フィリップ・ロスは、『ポートノイの不満』で彼が引き起こしたすばらしい厄介ごとのすべての結果として。そしてノーマン・メイラーは、機械に対する彼の全方向的な怒りによって。


私たちは独断的で、事情通を気取っていて、たぶん鼻持ちならないやつだったと思うが、これから世に出ようとする若い文学世代というものはそういうものではないか。私たちは批評するために読書をしていたし、そうやって私たちが好んだ、しばしば不快ではあるがしかし常に挑戦的な作品を選び出していたのだ。アメリカの現実は、「われわれの感覚を愚鈍にし、むかつかせ、怒りを抱かせる。しかしそれは結局のところ、自分自身の貧しい想像力に対して覚えるある種の恥ずかしさの感覚なのだ」と、フィリップ・ロスは宣言した。だから小説は、内容と技法に関して極端にまで行き着く必要があったのだ。同様にスーザン・ソンタグは、ハイ・ロウの区別や美的な道徳主義を否定し、単純な感覚を擁護し、解釈を禁じたとき、「マシュー・アーノルドは死んだ」と宣言した。当代随一の哲学的批評家ウィリアム・ギャスは、小説は言語によって構成されるという必ずしも明白ではない事実にわれわれの注意を向けさせ、その含意を華麗に取り出してみせた。もっとも有名なところでは、ジョン・バースのエッセイ「消尽の文学」は、モダニズムの時代の末端にふさわしいように思われたアイロニカルでパロディ的な自己意識についての理論と美学を宣言したのだった。


これらの思想は、私たちが第一世代のポストモダニズムの森を走り回るときの知的な道具だった。奇妙でまた満足だったのは、いかにこれらの作品が、私たち教育のあるベビーブーマー世代がもっている卑劣さと裏切りの感覚と完璧に同調していたかということだ。それから、今日に負けず劣らず、文化的な戦争が戦われた。しかし戦場は内的なものだった。私たちの精神と魂の内部での戦争だったのだ。


そしてそれから、ピンチョン司令官が登場したのだ。たった一人の亡命政府、山岳地帯からアメリカの意識の首都へと鳴り物入りで、究極の武器――『重力の虹』を携えて。ピーターと私は二人とも『V.』と『競売ナンバー49の叫び』を熱狂と崇拝と畏怖とをもって読んでいたし、またそれに同行する批評もたくさん読んでいた。私たちは熱力学の第二法則を正確に引用できた。ハーバート・ステンシルの第三人称の文章が『ヘンリー・アダムズの教育』をモデルにしていることを知っていた。「ダイナモと聖母」といったフレーズは達者になった私たちの口からさらりと出てきた。他の数多くの60年代の古典的作品と同じく、これら2つの小説は単なる読書体験ではなかった。それらは、読書の側の態度の根本的な変更というものを要求するように思えた。私たちはマクリンティック・スフィアの金言「冷静を保て。しかし心遣いを忘れるな」を具現化しようと試みたし、エディパ・マースのように、読解不能になった世界に対するめまいとパニックに打ち勝つための方策を見つける努力をした。アメリカの小説家のなかでピンチョンだけが、この奇妙で新しいポスト啓蒙主義時代の複雑さと内的な力学を制御する手段をもっているように思えたのだ。


だから、「エスクァイア」誌にまもなく『重力の虹』出版という広告をみつけたとき、私はただちに本屋にすっとんでいって、ヴァイキング出版社のオリジナル・ペーパーバック版を4.95ドルで買い求めた(感謝を込めて書いておくが、明らかに出版社の誰かがピンチョンの読者は金がないことを理解していたのだ)。この明るいオレンジの本のすべてに私は惹きつけられた。カバーアート、必要最小限のミニマリスト的なデザインのカバーのコピー(つまらない宣伝文句などはなく、あの忘れ難い冒頭の一文、「キーンという音が大空をよぎる」だけがあった)、亡きフォークのヒップスターにして小説家リチャード・ファリーニャへの献辞、ヴェルナー・フォン・ブラウンからとられた黒くアイロニカルなエピグラフ。これはすごい作品かもしれない、と思わずにはいられなかった。


そしてその通りだった。虚偽、腐敗、そして地政学的な策謀に満ちた世界についての、表面に見える混沌が幾重もの陰謀を覆い隠している歴史についての、拘束から解き放たれ、死に仕えるテクノロジーについての『重力の虹』の描写は、1945年以降アメリカの生活が恐ろしいありさまで押し流されていくなかで私たちがしがみつける手がかりをあたえてくれた。この本のアンチ・ヒーロー、空襲下のロンドンでの彼の数々の情事がV-2ロケットの着弾点を予測するタイローン・スロースロップは、ナサニエル・ウェストのレミュエル・ピトキンと、ジョーゼフ・ヘラーのヨッサリアンをモデルにした、古典的などじで不運なキャラクターである。ここにはノーマン・O・ブラウンのエロスとタナトスのビジョンが、見事に小説の言語となっていた。スロースロップは、不幸にも巨大で、非人称的な(あるいは三人称複数の“彼ら”だろうか)力の手中にあるが、ミッキー・ルーニー的な勇気を奮い起こし、世界の現象のなかに意味のパターンを読みとろうと奮闘する――彼は自分のピューリタンの先祖のように、「空に顕現するものに対する奇妙な感受性」を備えているのだ。マーケッティングの対象にされつくしてきたベビーブーマーであれば、スロースロップが生まれながらに秘密裏に行動療法の実験対象とされてきたというメッセージに、自分を重ね合わせなかったものはいないだろう。私たち全員がそうだったのだから。


スロースロップがその中を駆け回っているこの小説は、アメリカの小説がそれまで試みてきたこと、達成してきたことのすべてを要約しているように思えた。それは多価値的で、多声的で、多形倒錯的だった。他方で、その内容はファンタスマゴリー的、ハイパーリアル、シュールレアル、サトゥルヌスの祭りのごときどんちゃん騒ぎだった。『白鯨』と同じく、無意識にハイとロウを混合しつつ、形式主義やジャンル区分を完全に叩きのめしていた。ピンチョンは、ホラーシーンや猥褻な性的なシーンに、ミュージックホール的なバーレスク、散文で書かれたバズビー・バークレー制作のミュージカル、巨匠が描いたがごとくの真正さを有する歴史的場面の光景、チーチ&チョンやファイヤーサイン・シアターによるコメディ・アルバムでみつかるような古くさくてくだらないだじゃれのユーモアを交互に織り交た。このくだらないユーモアが私たちにとっては最高だった。私たちはときおりマリファナを吸っていたし、線的な思考から外れて自由に漂うのは、『重力の虹』の迷宮めいた複雑にアプローチするのに実りのある心の状態だった。


読者はこの本から、膨大な量の最新で適切な情報を収集することができた。ズートスーツ暴動とマックスウェルの悪魔キルギスの光とヘレロ族の反乱、ウーファーの撮影スタジオとドイツの表現主義映画の歴史、麦角菌のもつ幻覚性の特性とそれのヨーロッパの歴史への影響、アウグスト・ケクレの夢の中でのベンゼン環構造の発見、そしてとりわけ幾トンもの鋼鉄、燃料、爆薬からなるパッケージを数千マイル彼方のあなたの頭上に致死の正確さで速達郵便で届けるプロセスについての物理学とテクノロジーと解析幾何学微積分学。子どものころソ連の原爆攻撃に対する避難訓練をさせられていた私たちは*1、これらのことを真剣に受け取った。ナレーションはスロースロップについてこういう。「自分の名前がロケットに記されているのではないかという妄想がスロースロップの頭から離れなかった。もしかれらがほんとうに自分に命中させるつもりならば」[国書版上巻40頁]。わが意を得たり、だ。


ピンチョンの語彙はとほうもなく難解だった。「夢の(oneiric)」、「解除反応(abreaction)」、「三叉スプーン(runcible spoon)」、「破瓜病患者(hebephrenics)」、「無律法主義者(Antinomian)」、「狗僂病(rachitis)」、「不完全意欲(velleity)」、「見捨てられし者(pretelite)」といった、日常会話ではとても使えないような単語を何十個もメモしたノートを私はいまだにもっている。精神的支柱のない70年代を漂う読者にとって、これらがいったいなんなのかを、雄弁な説教術でもって私たちに説明しようとするピンチョンの語りの大胆な姿勢は、刺激剤であり、ライフラインであり、しるしであり、啓示であった。


「忘れてもらっては困るが、<戦争>のほんとうの仕事は売買だ。殺戮や暴力は治安維持のためであり、専門家でない連中に任せておけばよい。…ほんとうの戦争とは市場の祭典だ」[国書版上巻143頁]

「この<システム>は、<生産性>と<利益>は時と共に増加し続けると主張し、手に入れるだけで与えようとはせず、ほんの一握りの必死になっている輩が利益を得るように<世界>から膨大な量のエネルギーを奪っていく。人類の大半だけでなく――世界の大半、動物、野菜、鉱物もその過程において浪費されてしまう。<システム>はそれを分かっているかもしれないし、分かっていないかもしれないが、<システム>は時間を買っているだけなのだ」[国書版下巻46ページ]

「つまり、今度の戦争は政治的なものではなく、政治はまったくの見世物にすぎず、民衆の注意をそらしただけであり…そのかわりに秘密のうちに戦争を導いていたのは、テクノロジーの要請であり…人類と技術の共謀であり、戦争というエネルギーの爆発を必要とする何ものか、『金なんかクソ食らえ。[<国名>を入れよ]の生活が危機に瀕しているんだぞ』と叫ぶが、しかしおそらく裏の意味は、『夜明けはそこまできている。夜の血が必要だ。資金、資金、ああ、もっともっと…』と言っている何ものかなのだ」[国書版下巻、171頁]


この作家は、ランドルフ・ボーン、C・ライト・ミルズ、マックス・ウェーバーと交信していたのだ。私は激しい同意で首を振りすぎてむちうち症になるところであった。


たしかに『重力の虹』は読むのに骨の折れる本だった。一度にたくさん読むと、人物、出来事、含意のごったまぜがいったい何を意味しているのかほとんど分からないまま過ぎてしまう。しかし間をおいて読めば、かならず驚きで息を呑む箇所に出会うのだった。不味いイギリスのキャンディでスロースロップを窒息させかかる二人の老女の傑作コメディ、カティエ・ボルヘシウスとプディング准将が行う衝撃的なスカトロジー、ロジャー・メキシコとジェシカ・スワンレイクがクリスマスに地方の教会を訪れたときに起こるグレゴリオ聖歌の抑揚のついた顕現の瞬間、批評家ジョン・パワーズをして「あらゆる小説のなかで最も痛切な省略技法」と言わしめた、スロースロップが親友マッカー・マフィックの死を知ったときに呟く「早駆け…」というセリフの胸の張り裂けんばかりの衝撃。最も忘れがたいのは、スロースロップが催眠鎮静剤の点滴を打たれながら、ローズランド・ダンスホール――レッドすなわちマルコムXマリファナを売り、ステージではチャーリー・パーカーが「チェロキー」の超進化版の録音をしているナイトクラブ――のトイレでハーモニカを落とす幻覚を見る不滅のシーンだ。スロースロップはそこで便器の中へと入っていき、白人のアメリカの人種的想像力の排泄物で濁った深みへと入っていく。その内面の旅は、ラルフ・エリソン、ジェームズ・ジョイス、ジグムント・フロイトそしてレスリー・フィードラーとの即興演奏バトルのようにも読めた。驚くべきことだった。


リチャード・ズーラブという名のニクソンとおぼしき人物が経営するロサンジェルスの映画館をロケットミサイルがまさに破壊せんとする恐るべきラストに私とピーターが競り合いながらたどり着いたとき、わたしたちは、これはアメリカ人が書いた、いや何人の作家であろうと、今まで読んだなかで最高の小説であるという確信をお互いにたしかめあった。それは私たちの、私たちの時代の、偉大な書物だった。予言的でかつ教育的なテクストで、戦後の歴史の意味について語られうることすべてを要約していた。この信念に関して文学界のより広い範囲で多くの支持が表明された。今日まで、私はこのときほど賞賛の批評が席捲していく感動的な光景をみたことがない。リチャード・ロックは、当時あの並ぶもののいないジョン・レナードが編集していた「ニューヨークタイムス・ブックレビュー」の華々しい一面に寄せた書評記事でこの作品を激賞した。クリストファー・レーマン=ハウプトは、日刊のニューヨークタイムス紙のほうで、もっと変わった表現をしてみせた。「もし明日流刑で月へ送られ、5冊だけ本を持っていってよいと言われたら、この本がその1冊でなければならない」という締めのことばは有名になった。もっとも重要だったのが、リチャード・ポワリエが一般向けの『サタデー・レビュー』誌に書いた見事なエッセイだ。ポワリエは、この本をより広い西洋文学のコンテクスト――『ファウスト』、『白鯨』、『ユリシーズ』――にしっかと位置づけ、超心理学統計学、映画といった文学外の領域から素材をもってくることによって文学を刷新しようとするピンチョンの努力について、何人かのお偉方の神経を刺激することになるだろう、と正確に予言したのである。「文学がこれらのいずれよりも優れているとするならば、それを証明できるのは『重力の虹』と同じくらい文体的に幅広い作品しかないだろう」。ポワリエのエッセイは、いまなおこの小説についてなされた唯一最良の批評であり、これからなされる論評すべてにとっての離陸点でありつづけている。


重力の虹』は、1974年に全米図書賞の小説部門を、奇妙な判定割れの結果、I・B・シンガーの『羽の冠』とともに受賞した。聴衆がとまどったことには、授賞式では、「難解語」の芸の名人アーウィン・コーリー教授がピンチョンの代理で、あるいはもしかしたらピンチョンその人として、賞を受け取り、会場を笑わせたあと、半分しか意味の分からない茶化したスピーチ*2を始めた。その冒頭はこんな具合だ。「しかしながら、わたくしが、えー、リチャード・パイソン氏に代わりまして、彼の偉大な貢献に対するこの経済的遅延を、あー、ではなく、支援を、お受けするにあたり、また彼が貢献したところのいくつかのミサイルから引用いたしますと…」云々。それは70年代のこと、男が全裸で壇上を走り抜ける一幕もあった。この名演出がおそらくピューリッツァー賞の理事会の(私は可能なかぎりもっともゆるい意味でこの言葉を使うが)愚か者たちの念頭に浮かんだのかもしれない。彼らは、ピューリッツァー賞小説部門の選考委員会――委員は(なんと)ベンジャミン・ドゥモット、エリザベス・ハードウィック、そしてアルフレッド・ケイジンだった――が全員一致で『重力の虹』に賞を与えるべきと推薦したにもかかわらず、それを無視することに決め、代わりに受賞作なしとしたのだった。誰もがピューリッツァー賞というものはばか者たちにお皿を1枚あげるのとは違うことだと信じることができた数十年前のことだ。


話はベイ・リッジに戻る。その後、私はより精力的にピンチョン探求に邁進していた。『重力の虹』を一度読み終えた後は、また6ヶ月かけて再読した。ニューヨーク公共図書館で、「エポック」、「ニュー・ワールド・ライティング」、「サタデー・イブニング・ポスト」(!)に掲載され、まだ本になっていない初期の短編や、「ニューヨークタイムス・マガジン」に載った秀逸なノンフィクションの作品「ワッツの心への旅」などの黒ずんだコピーをとった。私は、スタンリー・キューブリックが『重力の虹』の映画化をしなければならないという確信に捉えられ、私もどうにかしてその仕事に一枚噛めるのではないか、などと考えていた。結局なにもできなかったわけだが、私は今でもこのアイディアは最高のものだと考えている。私はあいかわらず読みに読んでいたが、次第にそれは漠然とセックスの後の気分に似たものになっていた。もし文学が消尽されていたならば、死にゆく星であったならば、『重力の虹』は確実に超新星だった。興奮させ、爆発的なものすべてを凝縮し、壮麗な終末の展示となる超新星。1976年の全米図書賞を受賞したウィリアム・ギャディスの『JR』は、この壮大な小説上の企図全体の最後の余波のように感じられた。ピンチョンの小説は、ポスト・ヒューマニズムの達成の頂点として、科学と技術によって完全に変容した世界の美と恐怖についにふさわしいものとなった作品として、私の頭の中に住みついてしまった。人間の想像力にはまだ価値がある。しかしそうなるためには、ラディカルに変化しなければならない――大胆な挑戦のなかにくるまれた大きな慰め。そうこうするうちに私は出版社ではじめての職を得、やがてヴァイキング・ペンギン社の編集補佐になった。そうしてこれが――コモディウス・ヴィクスの傍らを流れ――ピンチョンの長年の担当編集者であるコーリーズ・M・スミスとの最初の出会いにつながるのだった。


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つづき