アレゴリー

アレゴリー的直観の場にある形象は、断片、謎文字(ルーネ)なのである。形象のシンボル的な美は、神学の光があたると胡散霧消してしまう。総体性の偽りの仮象(かがやき)も消えさる。というのも、形相(エイドス)が消え、模像が滅び、そのなかの宇宙が干からびるからである。そのあとに残る枯死した判じ絵のなかにこそ、混乱した思索家にもまだ捉えられる洞察がひそんでいる。感覚的な美しい自然が不自由であり、不完全であり、打ち砕かれた状態にあることを認めることは、古典主義にはその本質からいってできないことであった。

なにも変わったことは起きていない。坂の上から見下ろす。太陽がまぶしくて目をほそめずにはいられない。巨大な場所に散会する家々が、手入れの行きとどいた農作物のように、鈍い褐色の地表からいっせいに伸びていた。そして電池を変えるためにトランジスタ・ラジオを開け、印刷された回路をはじめて見たときのことを思い出した。家々と街路の秩序ある渦が、この高い角度から見下ろすと、あの回路板と同じように、ふいに、おどろくばかりの鮮明さで、いま、こちらに跳びかかってくる。ラジオについては、南カリフォルニア人たちについての知識ほどもなかったが、そのどちらについても、外面のパターンに一種神聖文字的(ヒエログリフィック)な感じがあって、意味を秘めているよう、なにかを伝達しようとしているようだ。印刷された回路には(エディパさえ探り出そうという気になれば)語ることのできそうなことが限りなくあるように思われた。同様に、サン・ナルシソ市を見た最初の一分間、一つの啓示がやはりふるえていたのだ。きわどいところで彼女の理解の閾を越えていたが。スモッグがいたるところ、地の果てまでもたちこめ、明るいベージュ色の田園都市を照らす太陽の光が目に沁みる。エディパも、自動車も、奇妙な宗教的な瞬間のまんなかにとまっているように思われた。まるで別の周波数で、あるいは、自分のほてった肌では、その遠心的にひろがる冷気が感じられないほどゆっくりと旋回している旋風の目から、なにやら言葉が発せられたかのようなのだ。