っと、またずいぶん間があいてしまった。日々が飛ぶようにすぎてく。なのに休みは寝てばっかりだ。
先日図書館で発見したヘルマン・ヘラー『ドイツ現代思想史』(御茶ノ水書房、1981)はかなりの良書ぽい。原書は1926年だが、内容はまったく古くない。パラパラとめくるだけでも目を引く個所がいっぱいある。
「ルソーがカントの倫理的・政治的成長にとってどんな意味をもっていたかについて、このドイツの哲学者[カント]は次のように告白している。『私自身は好みからすれば学者である。私は認識にたいする非常な渇望と、認識においてさらに進みたいという貪欲な不安を感じるのであるが、また認識を獲得するごとに満足を感じた。これだけが人類の名誉となるであろうと、私が信じた時代であった。そして私はなにも知らない下層民を軽蔑した。ルソーが私を正してくれた。こうしたのぼせ上がった優越感は消えてなくなり、私は人間を尊敬することを学んだ。そしてもし私がそのような考察はほかの全ての人々に人間の権利を回復するという形を与えうるということを信じていなかったならば、私は普通の労働者よりも役にたたないものであったであろう』」。
なかなか感動的な一文だ。さらにヘラーは続ける。
「カントの普遍的立法の理念、普遍的自律性の要求、彼の法学的な法則倫理は、すべていうまでもなく政治的民主主義を暗示している。慎重なケーニヒスベルクの賢者は、事実、国家契約・人民主権・自由と平等の要求という自然法啓蒙主義のあらゆる政治的思考形態を受け継いでいたが、しかしそれらすべてを政治的に危険でない形態に曲げていた。…カントは民主主義的思想からあらゆる革命的毒牙を抜き取ってしまった」。
ハーバーマスの『事実性と妥当性』第三章でのカント論はこのへんのことをいっている。しかしハーバーマスウェーバーにしてもそうだが、ドイツのリベラル・デモクラシーの系譜を探っていくのはなかなか楽しい。そういやチョムスキーが、「民主主義と教育」という講演で、フンボルト兄の名を挙げていたのも感動的だった。彼はアダム・スミスとまったく同時代のリベラリストだったんだな。こういうリベラル・デモクラシーの系譜が、ドイツでなぜ勝利をおさめなかったのか、というギモンはドイツ思想史の永遠の課題なんだろうなあ。