ハーバーマスの言語論的転回、というのがふと腑に落ちた(ような気がした)。了解志向性を持つ言語そのものに潜む合理性というのがキーなのだきっと。ハイデガーの世界内存在のRedeの分析と実はよく似ているが、しかし<文法>のもつ規範力というものに着目する点が異なる。ここはまちがいなくチョムスキーだ。言語がもつ有限の拘束的な原則を自由に使いこなすことで、人間は創造力を発揮し限界を超えて自由に(未来に)向かっていく。これが超越なのだろう。そしてこの超越は、世俗内的コミュニケーション行為の次元においては、最終的に法の正統性と規範力という形で結実する。言語規則とともに働く道徳原則。チョムスキーのことを鶴見は「構造的アナーキスト」(笑)と呼んだが、この点で理性法の擁護者ハーバーマスも自ら「事実性と妥当性」の序文で認めるとおり、やはりアナーキスト的な側面ももっている。ここでぼくは一気にピンチョンに立ちかえってしまう。一瞬ひろがる青空。記憶。パンパと空とがアナーキーなまでに一心同体だったころ…