王 秘蹟 奇跡

 要するに、王を<双生の人格personae geminatae>として捉えるノルマンの著者の国王観は存在論的なものであり、また、祭壇で執り行われる秘蹟的・典礼的な行為から発出するものとして、それは典礼的なものであった。(…)この[典礼的な王権の]哲学は、来るべき時代の哲学ではなかった。塗油の秘蹟の効力に対する神秘的な信仰に支えられ、反教権的な情熱に満ちたノルマンの逸名著者の諸論考は、実践的な影響を少しも及ぼさなかったとしばしば指摘され、主張されてきた。事実、叙任権闘争に引き続いて、革新的な改革を経た教皇庁が勝利を収め、教皇の指揮下に聖職者の支配権が確立するにおよび、霊的な領域は聖職者に独占され、聖職者の支配領域へと変えられていった。これにより、ノルマンの逸名著者がかくも熱烈に擁護した典礼的王権の王=司祭的な構造を維持し、復興せんとするあらゆる努力は挫折したのである。(…)彼はアングロ=サクソンのイングランド、およびオットー朝や初期のザリエル朝時代の諸理念の闘士だったのであり、彼がその諸論考で要約したのは、10世紀と11世紀の政治理念であった。

 ふたりは力が抜けた足を同じ角度に曲げ、スロースロップは柔らかくなりかけたペニスを彼女の中に入れたまま、目覚めと眠りの間のゼロ地帯を探索している…寝室は水と冷たさに沈む。どこかで太陽が沈んでいく。彼女の背中のそばかすが見えるくらいの明かり。居間ではクォード夫人がボーンマスの庭のツツジに囲まれている夢を見ている。突然、雨が降りだし、オースティンが彼女の喉にさわってください、王様。さわってください!と泣きさけぶ。するとイリヨ―王位を主張している本物の王なのだが、1878年ベッサラビアをおおっていた陰謀の最中に非常に疑りぶかい分家によって王座を奪われた―イリヨは金色の細ひもが両袖に輝いている昔風のフロックコートを着て、雨の中で身をかがめ、クォード夫人が「瘰癧」で二度と苦しむことがないように治そうとする。その姿はグラビア写真のよう。王の愛らしいフリスーラは、1、2歩静かに後に下がり、真剣な面持ちで控えている。あたり一面、雨が激しく降っている。王は手袋をはずした白い手で蝶のようにクォード夫人の喉のくぼんだところに触れようとする。触ると奇跡がおきるのだ。そっと…触れる…
 稲妻が――