ポリティカル・コンパスについて(続き)

 例のポリティカル・コンパスを人に紹介して、横軸のEcconomic Left/Rightについての傾向を説明するとき、おもいっきし単純化して、たとえばドイツの地下鉄とかでよく小銭プリーズ!してくる人に対してどういう態度をとるかってことだよと説明した。つまり、金が欲しければ、人の善意にすがってないでちゃんと働けボケー!というのが一番右。かわいそうだと思うけど、どうせ酒につかっちゃうんだし、とおもって無視に徹するのが、ちょい右。話を聞いて小銭があればあげるのが、ちょい左。つねに同情心たっぷりでサービスしまくるのが一番左、だと。
 こういうふうにかくと左がいい人みたいなかんじだけど、かならずしもそうでもなくて、単なる偽善者である可能性も高い、と。要するに、「経済的に現実的」であればあるほど右にいき、左にいけばいくほど「経済的に非現実的」なんだと。ありうべき再分配モデルについて見解だと。いうふうに説明した。
 で、ふとおもったのは、こういう経済政策的な意味の左/右だと、単に社会民主主義/新自由主義の軸になってしまって、コミュニタリアンとかリパブリカン的な意味での「右」をうまく説明できなよなあ、ということ。コミュニタリアンはべつに縦軸にプラスに行く(権威主義的になる)わけでもないしなあ。あのグラフだとどこにポイントされるんだろう?
 なんてことをつらつら考えていたら、宮台氏の文章に出くわした。ポリティカル・コンパスのグラフでは表わしきれない「右」「左」をうまくとらえているように思う。

 政治的再配分を肯定すると左になり、否定すると右になる。それが常識です。否定すると小さな政府になり、小さな政府では担えない分を伝統的共同体や家族や性別役割分業に負担させます。だから保守と呼ばれるというわけですね。
 ところが、冷戦体制が終わると、こういう古いタイプの左か右かという対立は、思想的には重要ではなくなってきます。再配分を単に否定すれば、伝統的な共同体の一部が空洞化し死滅するので、再配分の否定が「保守」だというわけにはいかなくなりました。そこで、新たに重要になったのが、再配分の形式です。
 具体的には、集権的再配分なのか、分権的再配分なのか、ということです。もっと分かりやすく言えば、国による再配分メカニズムなのか、地域のローカルな相互扶助メカニズムなのか、ということです。匿名的な再配分なのか、顏の見える再配分なのか、ということですね。
 後者は、無政府主義に見えますが、国家を否定していません。つまり社会学的伝統に棹さしたものです。この立場は「第三の道」と呼ばれる政策パッケージから出てきましたが、元を辿ると社会学デュルケームの「国家を否定しない中間集団主義」にまで遡ります。そのことが伝統を証します。と同時に、僕は近代社会の本義を構成すると思います。
 これは、「私的自治の原則」を貫徹させつつ、私的自治では解決不可能な問題を補完するために、公的なものが呼び出されるという構造です。公私は入子になります。すなわち、できるだけ小さな単位で問題解決を図り、どうしてもダメならより大きな単位で問題解決を図る。そこでもダメならもっと大きな地域単位で問題を解決するというものです。
 家族親族でダメなら町、町でダメなら市、市でダメなら県、県でダメなら県連合、県連合でダメなら国、国でダメなら東亜細亜共同体、というふうに、国の下方にも上方にも開かれた「マルチレイヤー的な異主体システム」を構想します。これについては、姜尚中さんとの共著『挑発する知』(双風舎)で詳しく述べました。
 デュルケーム研究者だったアンソニー・ギデンズが「第三の道」を標榜するのは自然です。七〇年代までの福祉国家主義的な左(集権的再配分)が行き詰まり[第一の道]、八〇年代からは政治的再配分を否定するネオリベラリズムが席巻しましたが[第二の道]、医療や教育や共同体が空洞化して、ローカルな相互扶助が見直されました[第三の道]。
 この立場は、二つの柱があります。一つは「集権的再配分から分権的再配分へ」という構想。もう一つは「ネガティブ・ウェルフェアからポジティブ・ウェルフェアへ」という構想。後者は、弱者(を自称する者)に再配分するのでなく、「動機づけを持つのにリソースを持たない者」に再配分することを意味します。
 集権的再配分を否定し、弱者への再配分もを否定するこの立場は、「弱者への集権的再配分が伝統的共同体を破壊する」とする右の立場と論理的に近接します。強いて違いを言えば哲学的ベースや思想的ベースの違いです。でも違いは相対的です。
 再配分を計画するのは人間的理性ですが、「人間的理性で世界をどこまで覆えるか」について、哲学や思想はスペクトルを構成します。このことについては、仲正昌樹さんとの共著『日常・共同性・アイロニー』(双風舎)で詳しく述べました。
 横の力(社会関係から来る力)ではなく、縦の力(非日常的源泉から来る力)をどれだけ当てにするか。表現(メッセージの伝達)ではなく、表出(エネルギーの発露)の連鎖をどれだけ当てにするか。原理原則への合意ではなく、遡れない事実性をどれだけ当てにするか。その程度において、右の度合が高まります。

 なげえ・笑。しっかし宮台氏のこのチャート的な切れ味のよさ、感心しつつもなーんかちょっと不安になるんだよなあ。あ、嫉妬かしら。きっとそうだー・笑
(追記:いやあしかし宮台氏のこの文章、ひさしぶりに読みごたえがあるなあ。10回くらい読まねば。)