姜尚中&テッサ・モーリス=スズキ トーク&サイン会@丸善本店

 なんかトーク会づいてる。予定していた読書会が折りよく中止になったので、じゃーいきますかということで、そそくさとオフィスを抜けて丸善へ。整理券も本も家に置いてきてしまったが、その旨を電話で伝えると店員さんは整理券を用意しておくといってくれた。親切だー。こないだジュンク堂のほうがいいなんて書いてしまってごめんなさい。
 で、トーク会。憲法・世論・マスメディア・ネット(ブログ)・観客民主主義・政教分離・私と公など、テーマはてんこもりだったが、1時間のトーク会では当然のように消化不良感が漂ってしまった。まあしかたない。最後の方で、ようやく緊張がほぐれてきたとおぼしき姜さんが50を過ぎた心境や生や死の話をぽろっとはじめて、お・ちょっとおもしろくなってきたと思ったら、編集者Oが「暗い話はあんまり…」などと止めやがったよ。空気嫁
 姜さんがマスメディアに頼るな、自分でニュースを発信しろ、これだけ豊かな日本はもっと言論百花繚乱にならねばとい主張するのを聞いていてふと思ったのだが、メディアに対して憲法はどのような保障と制限をすればよいのだろうか。憲法の精神がリベラル・デモクラシーの精神に則っている以上、むろん古典的防御権としての表現の自由は不可侵の価値・不可欠の基礎となる。だがそれを侵さない限りで、ジャーナリズムの多様性と質を積極的に保証する規定が憲法にあってもいいんじゃないか。あれば現状が変わるか?といわれれば分からないけど。でも現状でジャーナリズムの競争がなりたってるかというと、エロと物欲と権威主義に圧殺されてるわけで。報道の側の自己規律でどうにかなるもんなのだろうか。分からん。
 ところで『デモクラシーの冒険』は、シャンタル・ムフとかファーティマ・メルニーシとか知れて勉強になっておもしろかったんだけど、一番考えさせられたのは序章のメールのやりとりだったな。ごく日常的でよくある、でも確実に人の元気を失わせるコミュニケーションの断絶のかたちと、逆にコミュニケーションのなかでアイディアが形になっていく瞬間に回復してくる元気、が記録されてる。資本主義市場の<不況>もこうしたコミュニケーション・ラグの悪循環でおこるが(嘘かも)、心の不況も同じだ。勇気という資本をどこから調達してくるか、というのが今のデモクラシー、というかまあ、いま、ぼくたちが生きる上でいちばん大事な問題なんだなという気がする。で、トークのテーマだったはずの憲法も、たとえば夜じぶんの部屋で読んでいると、なんかふつふつと勇気がこみ上げてくるような憲法であるのが理想なんだろう、と思うんだけど、どうだろう。冷静に考えるとキモイんだけどさ・笑。でも憲法の正統性ってそういうことだろとも思う。