『エミーリア・ガロッティ』

 彩の国さいたま芸術劇場にて。原作G.E.レッシング(1772)/演出ミヒャエル・タールハイマー/初演2001@Deutsches Theater Berlin
 ドイツ年2005/2006の締めくくり鑑賞。1,000円でよい席で見れた♪
 開演直後。照明が完全に落ちたとおもった瞬間、激しい擦過音とともに舞台正面奥の扉前に火花が散る。間髪いれずチェロとピチカート伴奏のワルツが始まり、エミーリアがキャット・ウォークで登場。今度は天井から振りそそぐ火花。美しい一瞬だったなあ。ゾワっとした。最高のタイミングだ。
 タイミングと、それから身振りと距離の劇だったなあという印象。表現主義的といってよいのかしらん。よく練られている。こういうのドイツ人はほんとうに得意なのだ。セリフなんてもしかしたらいらなかったかもしれないと思うくらい、身体言語が強烈で歪んでいて豊かだった(とくにオルシーナ伯爵夫人がマリネッリを屈服させるシーンが圧巻)。ダンスやパフォーマンスの舞台のよう。セリフはどこか自然さを剥ぎとられていて、発語という行為の一番プリミティブな層が露呈しているかんじ。人形劇のようなぎこちなさと洗練。
 見る前も、見終わった後も、しかし、啓蒙/ロココ期の「市民悲劇」の翻案というのはどのような意味があるのか、としばらく考えていた。愛と結婚をめぐる君主の横暴と市民の対立なんてテーマは全然ピンとこないし、イプセンチェーホフがいるからもういいじゃん、より現代的なんだから、とか、やっぱり市民劇よりも、こないだの『モローラ』のヤン・ファーブルのいうように、叙事詩的なもののほうが現代社会にアクチュアルに訴えかけるよなあ、とか。でも、よく考えると、とくに男の俳優たちの身振りにあらわれていた表面の洗練と裏返しの野蛮さや幼児性はものすごくリアルなのかもしれない。現代の暴力Gewalt(家庭内の、行政の、経済の)はああしたものだから。
 まだよく整理できないけど「様式」について考える。話よりも、様式が説得力をもつということはある。