ピンチョン『逆光』書評紹介:「複素数的なテクスト〜『逆光』の世界の数学的な遊戯〜」

 

「架空(イマジナリー)」と彼女が笑った。「もっといい言い方があるんじゃないの?」
"Imaginary," she laughed, "not the best to way to put it!"(『逆光』下巻21頁)


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 さて、『逆光』のドイツ語圏の書評を読んでいたらいくつかおもしろいものがあったので、気ままに紹介してみることにする。
 『逆光』のドイツ語訳は2008年5月出版だが、この書評はその5ヵ月後にliteraturkritik.deというオンライン書評サイトに掲載されたもの。原文はこちら。『逆光』のテクストの特殊性を論じたもので、他の書評ではこの点に触れているものがなかったので、なるほどと思わされた。
 ポイントは、タイトルが示すように、『逆光』のテクストの構造は数学でいう”複素数”になぞらえうる、ということ。かつて大数学者ガウスが「すべての方程式はa+biという形の解をもつ」と定義をすることにより、数の概念を拡張し、数学を新たな段階に引き上げたのと同じことを、ピンチョンは文学の領域で企てているのではないか、という見立てがある。
 それはまず、想像(イマジナリー)の世界の擁護ということであるが、それはたんに現実とは異なる「もう一つ世界」を守るということではなくて、世界というものは常にイマジナリーなものとリアルなものの複合という形の解をもつのであって、そのような形で世界の概念を拡張すること、それを通じてこの現実をも豊かにすること、これが文学の本来の役割である。・・・筆者の主張は概ねこんな感じだろうか。ピンチョンの”ポストモダン”は気まぐれやお遊びじゃなくて、むちゃむちゃ正統的なんだって!文学の歴史のどまんなかなんだって!(これはぼくの魂の叫び)
 ハミルトンの四元数の解釈についてはややハズしているようで、不満である。<時間>が問題にされねばならないはずなのに、触れられていいない。それと、『逆光』の根本モチーフに関わる重要な科学的なテーマということなら、光学、電磁気学量子論、そして特殊・一般相対性理論など19世紀物理学の諸問題について当然触れるべきであったろうが、それもない。そこまで要求するのは欲張りすぎというものだろうが。

 著者のサーシャ・ペールマンは、ミュンヘン大学アメリカ文学の研究者であるが、2008年6月にミュンヘン大学で開催された「国際ピンチョン会議」の主催者でもある(洒落たつくりのウェブサイトがある)。ここで行われた研究発表がまとめられて、2010年に書籍化されている(高すぎ!)。会議のときはペールマンは発表を行わなかったようだが、本にはどうやらここで紹介する書評をベースに拡張したとおぼしき論文が序文として掲載されている。こちらは英語である。上記の不満な点はもしかしたらここで解消されているかもしれない。

 前フリ的な話をしている前半3分の1はカットした。



複素数的なテクスト
トマス・ピンチョン『逆光』の世界の数学的な遊戯〜
サーシャ・ペールマン


(・・・)
  ピンチョンのそれまでの作品と同じく、『逆光』にも科学的なライトモティーフが存在する。今回文学テクストにイメージ、アイディア、構造を提供しているのは数学である。そしてまた、数学それ自体が文学的なメタファーになってもいる。ただし、このように言ったからといって、『逆光』を、ある程度数学に造詣があれば完全に理解できるような実話小説(Roman à clef)の類だと考えてはならない。また、エドウィンアボットの『フラットランド』(1884年)のように、数学で扱われるさまざまな観念を物語でやさしく説明してくれるというものでもない(同書は、風刺のために数学的観念を用いている面もあるが)。

  『逆光』が、文学と数学を結びつけ、これについて語ろうとするのは、この二つが世界についての想像力にとって重要な意味をもつ分野であるからにほかならない。ピンチョンは、自分自身で書いた『逆光』の宣伝文のなかで、「この小説は、この世界そのものではないにしろ、小さな改変を一つか二つ加えたらもしかしたらありえたかもしれない世界を皆様にお目にかけます。畢竟これが文学の主な目的だとおっしゃる人もございます」と語っている。いうまでもなく、これはあまりにも控えめな説明であろう。加えられた改変は小さなものでも、一つ二つといった規模でもないし、そもそも改変される世界は一つだけとも言えないのだから。しかしここにおいてすでに、『逆光』という作品の鍵になっているのは、複数の世界を想像し、それら想像世界を相互に、またこの現実世界とも関連づける可能性(の条件)の探求にほかならない、ということが暗示されている。『メイソン&ディクスン』では、地図作製法(ないし<平行地理学」>)が、現実世界の上に想像上(イマジナリー)の世界の層を複数重ね合わせ、そうすることによって基礎にある現実の世界へのまなざしを変化させ、ひいては不変の基礎とみられていた現実を疑わしいものにするという機能を果たしていた。『逆光』では、このような世界と世界が交わる消失点は、数学によって提示される。そしてこの数学的イメージはまた、この小説についてのメタフィクション的な注釈として読むこともできるのである。

  『逆光』は、複合的なテクスト(complex text)である。こう言っても、ピンチョンが意図している二重、三重の言葉の意味の遊戯に入りこまなければ、決まり文句のようにしか聞こえないだろう。この表現で言わんとしているのは、複雑で込み入った(complicated)小説だということではなくて、「複素数」(complex number)と同じような意味で、「複素数的なテクスト」について語りうる、ということである。この類比表現は、『逆光』の<怪物博物館>の場面でさりげなく使われている。博物館には、数学者のハミルトンが、ダブリンのブルーアム橋に、後に彼の名がつけれらることになる有名な公式をポケットナイフで刻みつけているシーンを再現したパノラマ展示があるが、そのナイフが次のように描写されている。「半分現実で、半分虚構の、いわば『複素数的』ナイフ」(part real and part imaginary, a 'complex' knife one might say)[邦訳下巻132頁]、と

  (…)このリアルな部分とイマジナリーな部分の複合体という「複素数性」の解釈を、『逆光』自体に適用することができる。というのも、『逆光』の世界はまさに、ある部分は現実、ある部分は虚構の、つまりは複素数的な複合体だからである。同じように、先のナイフのくだりの直前で、パノラマとは「半分『本物』で、半分『絵画的』あるいはあえて言うなら『虚構的』」(part 'real' and part 'pictorial', or let us say, 'fictional')な、「二重の性格をもった空間」(zone of dual nature)[邦訳下巻131頁]であると言われているとすれば、イマジナリーなものとフィクションとが、同一視はされないものの、限りなく接近することになる。

  ピンチョンのフィクションは、「イマジナリー」という考え方を、文学的なファンタジーという意味でも、数学における虚の意味でも用いており、いわばそれらを相互参照させることによって擁護しているといえる。冒頭で触れたように、批評家はしばしばある小説について現実味を欠いていると非難するし、文学のほうでも、その想像世界が現実からあまりにも隔たっている場合、そうした非難に対して自分を正当化する必要に迫られる。ところが、非常に現実的な学問であると一般には思われている数学の世界では、虚数について、それが厳密に考えて現実には存在しないという理由で、扱うのは時間の無駄だと考える人など誰もいないであろう。文芸批評家はこの点で、新たな世界について新たな規則で思考することがどれほど有益であるかを、数学者に説明してもらわなければならない。ピンチョンは、数学における世界の拡張のイメージを『逆光』でさかんに活用しているが、それは、世界を現状(status quo)に還元してしまうことは常に諦めと放棄を意味するという、彼のほかの作品で繰り返されるメッセージの1つの変形版なのである。こうした想像力は、ピンチョンにおいては常に、世界をオルタナティブに考えることを禁じるイデオロギーに対抗する政治的な手段でもある。ピンチョンにとって、オルタナティブを許さないような現実は硬直を意味する。

  このように、ごく基本的な経験や観念さえも別様に思考するという可能性の真価を探るために、『逆光』では、数学における「虚」(イマジナリー)の考え方が援用される。虚数(イマジナリー・ナンバー)は、まさしく想像力に挑戦を突きつけるものであり、数学になじみがない人にはあらゆる自明な規則に矛盾しているように思われる。実数(リアル・ナンバー)の領域では、二乗して-1になる数は存在しない。すべての平方数は正数になるからである。i^2=-1が成り立つような虚数単位「i」の導入によってはじめて、そのような方程式の解が可能になる。虚という考え方は、世界の拡張を意味している。この拡張は、世界の記述ではなく、われわれの現実性を構成している思考の慣習を有用な仕方で打ち破ることを目的としている。虚数は、”不可能”な演算に基づいてはいるが、しかし、虚数と実数の複合体である複素数(コンプレックス・ナンバー)「a+bi」にみられるように、実数と関係をもつものである。虚数が、それまでの数学と全く別な新しい数学を意味するものではなく、伝統的な思考法に逆らうことによって数学をより豊かにしているのとまったく同様に、ピンチョンが描く想像上(イマジナリー)の世界も、読者が現実と呼ぶ世界から完全に分離してはいないのである。

  かくしてピンチョンのフィクションは世界の拡張を行う。世界というものは、考えられているほど統一的で単一的であったことなどおそらく一度もないのであるが、しかしそれは、世界が自らのもうひとつの(あるいは複数の)バージョンに重ね合わされたときはじめて明らかになる。『逆光』の中では、アイスランドの隠れた人々についての記述など、そうした世界と世界の並存関係がはっきりと示されている例である。ここでは数学と光学のイメージが統合されている点が注目に値する。「<隠れた人々>は氷州石の力によって隠れているんです。自らを現実と思いこんでいるこの世界の中を彼らが動き回れるのも、彼らの光に重要な90度のひねりを加えている氷州石の力のおかげです。それによって、彼らは私たちの世界と平行して存在しながら、見えずにいることが可能になる」[邦訳上巻204頁]。

  氷州石がもつ複屈折の光学的効果は、文字の二重像を実例として示されることが多い。『逆光』の初版のカバーデザインはまさにそれに着想をえたものだろう。文字の世界のこうした多重分割は、この小説の中では、世界そのものの分割になる。あるいは、常にすでに複数の世界が存在しているのであり、あるひとつの世界バージョンについての物語は数あるうちの一つにすぎないということが、氷州石の比喩で洞察されているといったほうがよいかもしれない。氷州石が、「現実の下部構造」[同上]であるとされ、「通常の緯度と経度のネットワークではとらえられない夢の構造」[邦訳上巻386頁]を明らかにする能力をもっているとされるのは、そういうことである。

  上の引用個所で特に大事なことは、氷州石が光を正確に90度回転させるという性質をもっていることである。というのは、実数に虚数単位iをかけることは、横軸上に表現される実数を縦軸方向に90度回転させることにほかならず、こうした操作によって、複素数幾何学的に可視化したいわゆる複素平面(complex plane)が創造されるからである。『逆光』の中で、氷州石がこの世に現れたのは、虚数が発見された時期、すなわち「数学的創造の二重化」(doubling of mathematical creation)が行われたのとほぼ同じ時期であるということがはっきりと言及されている[邦訳上巻204頁]。この二つの革新的発見は、世界の限界についての想像力を読者に要求すると同時に、ピンチョンが行う創造的複製についての比喩ともなっている。いわば、ピンチョンのテクストそのものが複素平面になっているのである。

   こうした観点のもと、『逆光』は、虚数の活用をさらに進める。ハミルトンの四元数である。四元数は、複数のオルタナティブな世界が想像可能になるようなひとつの空間を与えてくれる。i^2・j^2・k^2=i・j・k=-1となるようなさらなる3つの数i, j, kを実数に加えることで、周知のxyz軸をもつ伝統的なデカルト座標系に対立する別の座標系を思考することが可能になる。このようにして『逆光』は、イマジナリーな場所のみならず、それらを内包するイマジナリーな空間をも創出することになる。『逆光』に登場する四元数の理論家たちは、他の「システム」との戦いで敗北を喫することになるが、にもかかわらず、かれらのオルタナティブな空間は文学的テクストの的確な比喩となり、現実に対する想像力の意義を再度強調するものとなる。ijk座標系の擁護者たちは、自らの劣勢を自覚している[邦訳上巻826頁]。xyz座標系の擁護者たちにしてみれば、空間に1次元を、時間に3つの次元を割り当てるようなijkの輩に、空間に関する解釈権限と物質的権力を譲り渡すわけにはいかない、というわけである。

   『逆光』は、人間に備わる空間概念の基本システムにさえ一つのオルタナティブを用意したうえで、その抑圧を支配側の政治的行為として解釈する。この小説は、自らの世界観の根本的なオルタナティブを通して自分自身を徹底的に考え抜くという思考実験を行うのであるが、それはたとえばこんな具合である。まず、人間がベクトルとなって次のような変換プロセスを経るというアイディアが開陳される。「まず最初にいる場所は現実的な実数の世界、そこから長さを変えて、仮想的な虚数の座標系に入り、最大3つの異なる方向へ回転し、新しい人間――つまり新たなベクトル――になって現実世界に戻る」[邦訳上巻835頁]。そして一人の数学者が、なんとこの変換を実演してみせるのである。彼はレストランから消えたかと思うと、「ちょっとちがった人物になって」、マヨネーズの壷に片足をつっこんだ状態で台所に出現する。他の箇所でもこうした例はたくさんあるが、この小説ではこんなふうに書かれたことがそのまま実現してしまうので、抽象的な数学理論も、あるときは哲学議論、あるときはドタバタ劇にと(この両者はいつもきれいに区別できるとは限らないのだが)、さまざまな方面におもしろおかしく展開されていくのである。

  『逆光』におけるこうしたイマジナリーな多元宇宙の中心的人物は、おそらく「偶然の仲間」たちであろう。かれらは、他の登場人物にまして世界と世界のあいだを行き来し、他の世界間旅行者とも遭遇する(ここでいう世界には、時間的に異なるだけで、空間的には”現実の”世界と一致するような世界も含まれる)。かれらが小説の中のどの世界に属しているのかということは、最後まではっきりとしない。「偶然の仲間」たちは、ほかの登場人物たちが読んでいる少年向け冒険小説シリーズの主人公であるのに、登場人物たちにとっての現実世界にも登場するのである。それゆえにかれらは、ルー・バズナイトという人物とはじめて出会ったとき、彼にむかって、<偶然の仲間>のことを知らないなんて、子どものときになにを読んでいたのですかと、やや憤慨しながら尋ねることができるのだ。

  「偶然の仲間」たちもまた、小説の中ではある部分現実の、ある部分虚構的な「複素数的」な人物であるようにおもわれる。そしてかれら自身、組織から離反し、しばらくの間飛行艇乗りからハーモニカ学院の生徒になった後に、自分のアイデンティティに確信がもてなくなる。あたかも、この小説の複素平面上における世界の分裂状態を読者につねに思い出させておくために存在するかのごとく、「偶然の仲間」たちは、『逆光』の虚構の世界に、半ば虚構として、半ばあまりにも現実的に登場する。かれらは、『逆光』の世界の現実をまったく感知しないこともあるし、陰鬱な予感だけを感じることもある。物語の半ばころ、ベルギーのイープルとメニンを結ぶ道の途中で、かれらには平和な風景しか見えていないところに、一人のタイムトラベラーが、フランドルは歴史の共同墓地となるだろうとかれらに語る[邦訳上巻859頁]。そして物語の終わり近くで、かれらは下界で起きていることを鮮明に目撃することになる。またかれらは非ユークリッド空間における真の放浪の旅というべきものを経験する。飛行船で高く上昇しつづけているはずなのに、いつのまにか再び下降しているという事件があるとき起こる。そしてそこで、かれらがかつて訪れた世界はすべて、この地球の複数のオルタナティブなバージョンであったということを発見するのである。

   かれらは<反地球>にいるが、同時に<本当の>地球にもいる。そしてそのような状態のまま、かれらは第1次世界大戦に遭遇する(彼らが船上で<下方の直接法的な世界>との関係を断っていた間は、それに気づかなかったのであるが)。ピンチョンは、このようなやりかたで、複数の世界の遊戯のなかでも、それらの世界の現実が、その複数性ゆえに残酷さを減らすわけではないということを読者に思い起こさせる。イマジナリーな部分があれほど祝福される一方、複素平面的なテクストにおけるリアルな部分がくりかえし前面に現われてくる。『逆光』の読者は、この小説の実部と虚部をはっきりと区別し確定したり、首尾一貫して評価することはできないだろうし、またなにがなんでもそうしようとは思わないだろう。むしろ、「偶然の仲間」たちのように、現実世界ではijkならぬxyzへの固着ゆえにけっして受け入れられることのない虚と実の困難な共存のなかに、すすんでみずからを再発見することだろう。この拙文のささやかな洞察とは、本来、複素数性をもってしてはじめて、この単一な現実の世界に出会うことができるというものであるが、これをして、『逆光』が複素数的であることの証明とすることが許されるであろう。